手持ちの鏡をのぞきこんで、グロスがよれてないのを確かめながら「今日のヒールは失敗だったなあ」と思う。足首に巻きつくストラップ代わりの金色のチェーンが、じゃらじゃらと五月蝿いし、ヒールが高すぎて歩くのに不安だ。見た目ばかり豪華でも、通りかかる男客に追いつけないんじゃ、しょうがない。


「たくっ、店長も出勤前に言ってくれたらいいのに」

この不況でアルバイトの男の子じゃ釣れないって言うんで、わざわざ店の女の子を外に立たせる店側もどうかとは思うけれど、可愛い女の子の客引きに釣られる男が多いのも本当だ。 あたしは一つため息をついて、徐々に暮れかかり、これから盛況を迎える通りをながめた。サラリーマン、公務員ぽいスーツの男、買い物帰りのお婆ちゃん、OLぽい女の人、自営業の気楽そうなおじさん、小学生......................数人やりすごしてから、通りかかる客層がおかしい事に気づいて、あたしは最近表のメイン通りで、大規模な道路工事が行われている事を思い出した。普段はこんな猥雑な歓楽街を通らない人も、メイン通りの混雑を嫌ってわざわざ回り道するってわけか。

「お兄さーん、ねえちょっと休憩していかない?」

「お仕事お疲れ様ですー、パーっと遊んでいきませんか?」

「可愛い子いっぱいいますよー」

数人に声をかけて、明らかに胸を強調した服と、スカートから伸びる足にくぎつけになった男を、何人か店に放り込んだ。満足そうにグッジョブ!とサインを出す店長に「こんなもんよ」と得意げに笑う。あたしはこの仕事が好きだし、実際向いていると思う、自分の体だけで稼げるんだから、こんな良いことはない。感情だとか、純粋さとかで、今着てる流行の服も高い靴も買えっこない。忙しくボーイが動き回る店内を横目に、ちらちらと目線を送って客になれそうな男を捜しながら、あたしは高すぎるヒールで、ズキズキしてきた足の痛みを気にしないようにした。もうすぐ客引きが終わって、店に戻されたら靴を履き替えよう、それまで最後の一仕事だ。


その時、通りの向こうからあきらかにこの猥雑な雰囲気に似合わない男が歩いてきた。群衆の中で頭一つ分背が高く、清廉な雰囲気を漂わせた細身の男。買い物帰りだろうか、書店の袋をもって背筋を正してこちらに向かってくる。................普段なら気にもとめない、絶対客にはならなそうな若い男。悪戯心を出したのは、もうすぐ終われるという余裕からか、それともその男の切れ長の瞳が、あたしの日常にはない種類の綺麗さだったからだろうか。

「ねえ、お兄さん!」

声をかけられたと思って、にやつく手前のサラリーマンを無視して、後ろのその若い男に駆け寄る。呼び止められた男はあたしが隣に回りこむまで歩くのを止めなかった、どうやら声をかけられたのが、自分だとは思っていなかったようだ。隣に立つと遠めで見るより細くはなく、肩や腕はガッチリしていた。その男の切れ長の瞳があたしを射る。

「何か?」

意外にも、男の視線はあらわな胸の谷間にも、伸びた足にもいかず、まっすぐあたしの目に向けられた。少しあっけにとられながらも(普通の男なら平静を装いながらもチラチラ見るって)気を取り直して、にっこり笑顔で笑いかけた。

「今お暇ですか?遊んでいきません?」

眉根をよせて、何のことだかわからないという風にあたしを見る男に、うちの店の看板を指差すと『クラブぷれいめいと』という店名に、やっと合点がいったらしく「ああ、なるほど」とつぶやいた。普通なら、あたしの派手な格好と、この風俗店がひしめく歓楽街でわかりそうなものなのに、この男は慌てた様子もなく、また視線をあたしの顔に戻す。

「お兄さんカッコいいし、今ならいっぱいサービスしちゃいますよー?」

冗談交じりに言いながら、ミニスカートからのぞく足がよく見えるような姿勢で、上目遣いで見上げると、男の視線が足にくぎづけになった。「あんたがサービスしてくれるのか?」心の中でしめた、と思い「ええ、お兄さんがあたしを気に入ってくれたんなら」と笑顔で答えると、男が頬を緩めて笑った。もう、もらったようなもんだなと思ったー

だから、次の男の言葉に、心底あたしは驚いた。


「いや、それはやめておいたほうがいいだろう」

「え?」

「足」

「は?」

「足から血が出ている」

「え、あっ」

みると、ストラップのチェーンが巻きついている足首が擦れて、じんわりと血が滲んでいた。

「長いこと立っていたのだろう」


そう言って、男は懐から白いもの(何これ、和紙?)を取り出して、四つ折にするとしゃがみこみ、さっと傷口部分にそれをあてた。あまりにもその動作が手馴れていて、あたしはとっさに身動きをするのも忘れる。通り過ぎる人の群れの中で、あたしと、片ひざを立てあたしの足元にひざまずくその綺麗な男だけが、一時停止したように取り残される。

「よし、これでいいだろう」

うなずいて優しげにあたしを見上げた瞳に、不覚にも心が騒いだ。男の手にはあたしの血を吸って赤く染まった紙が握られ、彼は辺りを見回し、身近なクズ入れにそれを投げ入れると、なんでもない風に戻ってきた。

「あ、ありがとう」

「いや、礼はいい」

そう言って、本の入った袋を持ち直し、立ち去ろうとする男を「あっ、まって!」とつい呼び止める。なんだかもう客引きをするような雰囲気ではないし、その勢いも削がれてしまったけれど、もう少し何かを言いたくて、あたしは男を引き止める。「ねえ、本当にうちの店入らない?やっぱり手当てのお礼もしたいし、ちゃんとサービスするよ」今度は本心からそう思って言うと、男は少しこちらを見つめ、にやりと笑い、袋から本を取り出して言った。

「残念だが、それは無理だ。あんたが捕まる」

”高校入試5科ベスト過去問”


本のタイトルに「中、中学生ー!!?」と驚きのあまりに叫んだあたしを見て、「ハハハハ」と愉快そうに笑った男の顔は、先ほどの「にやり」とは違い、年相応に少年ぽかった。


「中学生ならもっと中学生らしく振る舞いなさいよー!」

「悪かった、そういう性分なんだ」

「まったくもう........!」


歓楽街のネオンに照らされながら、伏し目がちに笑う男を眺めて、この子は本当にずいぶん綺麗な男の子で、この通りにはまだ全然似合わないんだな、とあらためて思った。


「ねえ、あんた、名前は?」

「蓮二、柳蓮二だ」

「そっか、あんたさ5年後にまたここ来なよ」

「?」

「その時に今日の分もサービスしたげるからさ」


にっこり笑ってそういうとその少年、柳蓮二も笑い返してくれた。


「ああ、考えておこう」


そう言って、雑踏に消えてゆく長身をみつめながら店に戻ろうとすると、ふいに背中越しに先ほどの低い声が飛んできた。柳蓮二が雑踏の中からその顔をのぞかせて、こちらに振り返っている。


「あんたの名を聞き忘れた、名前は?」

「........えっと」

「教えてくれ」

「...........よ」


なぜか、その時あたしはいつも使っている営業用の名ではなく、本当の名前を教えた。「.....」 数回、口で反芻してから、柳蓮二はまた笑って雑踏の中に消えていった。今度は一度も振り返らず、彼が消えた通りは、またいつもの賑やかさと、酔っ払いたちの嬌声にあふれた猥雑さを取り戻す。

「お疲れさーん、そろそろ男の子に交代させるからさ、もう戻っていいよー」店長が店から顔を出して、通りを見つめるあたしをみて「あれー?引けなかったー?」と聞いた。

「駄目でしたー、十代でしたよお、店長!」

「ハハ、そりゃー駄目だ、ボーイでも無理だ」

頭の上で×マークを作って、おどけながらあたしは店内に入り、控え室で靴を脱いだ。手当てしてもらった傷口は、今はもう乾いて少しの痛みを伴うだけだ。その傷口をさすりながら、自分が15歳だった時のことを思い出す。つまらない授業、机の中で眠っていた教科書、放課後だけが最高にキラキラとしていてー..............何も持っていなかったけれど、楽しいことしか知らなかった日々。感情や、純粋さで、流行の服も高い靴も手に入らないけど、お金だけじゃあの楽しかった日々は、永遠に買えないな。

「あたしが15歳で、もし彼と同い年だったら彼に惚れてたかな?」店内用のスリップドレスに着替えながらそう考えて、多分惚れてたかもしれないな、と思い、微笑む。すごく好きになって、すごく大失恋して、すごく傷ついていたかもしれない。そうして、それすらも15歳のあたしには、幸福だと思えたかもしれない。でも、もうとっくに少女ではないあたしは手に入らないものよりも、すぐ自分のものになる素敵な服や、綺麗な宝石の方に目を輝かせてしまう。男の子と違って、それらのものが永遠に自分を傷つけないと、知っているから。


慎重に傷口をさけて、ちがうヒールの靴をはく、背中のホックを器用にとめながら、妙に幸せな気分になっている自分自身に気づく。何だろう?この気持ちは?何かに似ている。香水を首元にかけ、ふわっと香った金木犀の花の匂いと共に、あたしはそれが何なのかを思い出した。

「............ああ、そっか、初めて恋をした時の気分に似てるんだわ」

今日会った、不思議な少年の前髪からのぞく澄んだ瞳を思い出しながら、あたしはその夜を、とても優しい気持ちで過ごした。







090731